読み物
食事用冷凍パンを生んだひと スタイルブレッド代表取締役『田中知』(前編)
パンを生む場所・パンを生むひと from 桐生 vol.1
スタイルブレッドの本社があるのは、群馬県桐生市。群馬県東部に位置し、夏は国内でも群を抜いて暑く、冬は空っ風が吹いてとても寒い地域。赤城山などの山々、そして渡良瀬川に桐生川……夏はホタルが見られるほどの自然豊かな場所で、スタイルブレッドのパンはつくられています。「パンを生む場所・パンを生むひと from桐生」では、そんな桐生での製造現場から、毎回さまざまなつくり手の声をお届けします!
初回は、スタイルブレッド代表取締役・田中社長!食事用冷凍パンがうまれた経緯や、そのこだわりを教えていただきました。
アメリカに渡った「田中製パン所」の4代目
スタイルブレッドの前身は、「田中製パン所」だとお聞きしています。
そうなんです。わたしは、桐生に長年続いていた「田中製パン所」の4代目として、産まれました。その工場や売り場は子どもながらに楽しくて、パンをつくる工程やつくる人たち、パンが売られていく様子、買っていくお客さんの顔……そういう現場の空気をなんとなく感じながら、自然に育っていきました。父には、「別に継がなくていい。自分が好きなことをやれ」と言われていたのですが、「パン屋の息子はパン屋」だと無意識のうちに思っていたんですかね~。気づいたら、19歳のときにはアメリカ・ニュージャージー州のベーカリーに修業に行っていました(笑)
パンづくりの修業となると、フランスなどに行く方が多いと思うのですが…?
一応「パンづくりの修業」という名の渡米でしたが、そのためだけではなく、「人生をもっと楽しみたい、もっとたくさんの可能性があるかもしれない!」と思っての、「アメリカ」でした。英語がまったく話せなかったので苦労もしましたが、そのときの経験は後々とても役に立つんです。1年半修業したあと群馬に戻り、製粉会社で働いたあと、実家の「田中製パン所」を継ぎました。その頃は一職人として、午前3時からパンをつくる毎日を送っていましたね。
転機は自作の「フランスパン」
やはり当時から、つくるのは惣菜パンや菓子パンではなく、食事パンメインだったのですか?
個人的にはつくるのも食べるのも食事パンが好きだったんですが、売れるのはやっぱり惣菜パンや菓子パンなんですよね。葛藤の毎日でした。田舎じゃ、「パンを添える」という食文化がないですから。だから正直、特になんの思い入れもなく作ってたんですよね、パンを。ただ、当時工場にはフランスパン用のオーブンがなく、ちゃんとしたフランスパンが作れなかったんです。ここで、アメリカでの経験が役に立ちました。わたしはアメリカ修業時代にフランスパンはたくさんつくりましたから、自分なりに工夫を重ねて、工場にあったオーブンでもそこそこおいしいフランスパンがつくれるようになったんです。それを、今でも近所にある高級フランス料理店のシェフが見つけてくれて。なんと、「明日から仕入れるパンを、すべて田中くんがつくったパンにしたい」と言ってくれたんです。それがわたしのターニングポイントでした。
――なんとなく家業を継いだ、田中製パン所4代目。意外にも、それが田中社長のバックグラウンドでした。元々はひとりの職人だったという事実も、また新鮮。突然訪れた転機は、田中社長の人生をその後どう変えていくのでしょうか?続きは後編をお楽しみに!
この記事の執筆者
ライター 岩﨑未来(Mirai Iwazaki)
鹿児島県出身。2児の母。 都内の大学卒業後、編集プロダクションや出版社に勤務。 第一子出産と同時にフリーランスに転向し、夫の故郷である群馬県に移住。 現在ふたりの子どもを育てながら、フリーライター・編集者として多忙な日々を送っている。